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是枝裕和インタビュー For The Invisible Reality|Dazed Japan 📄


『誰も知らない』(2004)公開時のインタビュー


FOR THE INVISIBLE REALITY

取材・文:内田伸一
Dazed & Confused Japan (2004)



Koreeda Hirokazu
1962年、東京生まれ。映画監督、テレビディレクター。早稲田大学第一文学部文芸学科卒業後、番組制作会社のテレビマンユニオンに参加。主にドキュメンタリー番組を演出する。95年、初監督映画『幻の光』で第52回ヴェネツィア国際映画祭の「金のオゼッラ賞」等を受賞。2004年には監督4作目の『誰も知らない』が、カンヌ国際映画祭にて史上最年少の最優秀男優賞(柳楽優弥)を受賞。映画監督としては、ドキュメンタリー的表現によるドラマ作りで虚実を越えた人間の本質にせまるような作品群から、時代劇、ホームドラマなど多彩な表現世界を拡げている。
http://www.kore-eda.com


“大人のいない世界”。ネバーランドのような子供の楽園を思い浮かべる人もいるだろう。しかし、子供にとって最もそばにいてほしい大人=肉親から突然に置き去りにされて始まる物語もある。是枝裕和の最新監督作『誰も知らない』は、16年前に起こった実際の事件をもとに創り出されたフィクションだ。彼の映画は、誰かが自分を取り巻く現実を真剣に考えようとしたら、想像力も必要だということを教えてくれる。


1988年の“子供4人置き去り事件”

映画『誰も知らない』のモチーフになったのは、1988年に起こった“西巣鴨子供4人置き去り事件”だ。豊島区内のマンションで、14歳の長男をはじめとする兄妹が子供だけで暮らしているのが発見される。妹2人は栄養失調で衰弱がひどく、ただちに保護された。

長男の話からわかったのは、異父兄妹である彼らを育てていた母親が、ある日から帰ってこなくなったこと、残された子供たちだけでの生活は、母親からの現金書留を頼りに半年以上も続いていたことなどだった。さらに、子供たちはいずれも出生届けが出されておらず、学校に通った経験もなかった。妹たちについては、その存在すら隣近所に知られていなかった。報道を知った母親が現れたとき、さらに新たな事実が明るみにでる。

子供が1人、足りない。4人いた兄妹のうち、当時2歳だった末妹は置き去り生活のなかで死亡し、遺体は長男によって秩父の山中に運ばれていたことが判明した。その死因などを巡って事件はさらに注目されることになるが、ここでその詳細を述べることはあまり意味がないかもしれない。置き去り生活の悲惨さや母親の無責任、非常識を叫ぶ報道のなか、是枝は事件を別の側面から眺めていた。母親が“置き去り”の日まで1人で子供たちを育ててきたという事実。そして、母が去った後のマンションで、妹たちの面倒を見ながら暮らしていた長男のこと。

「事件を辿っていくなかで、この14歳の少年にシンパシーのようなものを感じる部分があった。兄妹がすごしたであろう生活の風景に、やはり東京で生まれ育った自分の記憶が重なったというのもある」

事件の翌年には、是枝はこの“置き去り”という設定を使って脚本の第一稿を書き上げた。まだ彼が映画を撮り始める以前のことだ。そして、事件から15年後の2003年、映画『誰も知らない』は完成した。


アパートの一室は本当に“地獄”だったか?

しかし、『誰も知らない』はいわゆる再現ドラマではない。事実に沿って構成されているかどうかで言うなら、この作品はフィクション・ムービーだと言える。

「映画を撮るうえで、それまでの実際の事件について得た情報はいったん捨てることから始めている。“置き去り”という状況設定だけを使いつつ、これまで事件について報じられてきたのとは違った視点で描きたかったから。アパートの外から地獄を語るのではなく、厳しい状況の中で兄妹たちの内面の揺れ動きというのを描きたかった。さらに、彼らが自力ですごしてきた日々の中で小さな喜びとか、子供たちの逞しさについても。そのためにはフィクションという方法が必要だった」

劇中、出て行った母親を待ちながら生きる子供たちは、ヒステリックに泣き叫ぶわけではない。むしろ大抵は物静かで、4人仲良く食事をし、みんなで笑ったりもする。時々、外界へのささやかな冒険もある。大人から隠れるように暮らしているのは、もし気付かれたら施設に入れられ、兄妹はバラバラになるかもしれないことを知っているからだ。

母親もまた、置き去り事件報道から想像されるイメージとは異なる描かれ方をしている。「見終わったあとに、『やっぱり母親が悪いのよ』という一言で片付けられてしまってはいけないと考えていた」(是枝による『演出ノート』より)の言葉通り、無責任だがどこか憎めない存在。確かに、彼女の“普通でない”感覚のせいで,子供たちは周囲の住人の目から隠れ(子供は長男1人だと偽っている)、いつまでたっても学校に行かせてもらえない。だか、そんな暮らしに時々反発しながらも、子供たちはどこかで母親を気遣っている。母親は母親で、親子を“普通”にしてくれる誰かをまっている……。

こうした描写を、事件の安直な美化ととるか、それとも、実際に置き去り生活のなかでも、何らかの“豊かな時間”が存在していたことを想像するか? 後者を選択することは、青臭い楽観主義ではなく、むしろその世界とシビアに向き合うことでもある。

例えば、長男が末妹に、いつか空港行きのモノレールに乗ろうと約束するシーンがある。幼い妹に対する兄の優しさに微笑ましさを感じる場面だが、彼の口からは、たとえ嘘でも「飛行機に乗ろう」という言葉は出ない。出生届すら出されていない“誰も知らない”存在は、どこにも行けないとわかっているからなのか、それともまだ、母親があの部屋に帰ってくるのを信じているのか。そうした痛みは“社会の歪み”とか“都市の闇”といった報道記事の常套句の中からは見つけられないだろう。


リアリティの分岐点ー出発点

是枝裕和とその作品に対しては、よく「ドキュメンタリーとフィクションの境界を行き来する」といった言葉が使われる。前作『DISTANCE』は、各俳優に自分のパートのみが記されたプロットを渡しておき、お互いに相手の反応をその場で受け止めながら演じる形で撮影された。手持ちカメラによる不安定な映像の挿入なども、記録映像的な生々しさを感じさせる。


しかし、『誰も知らない』では、予測不能な要素を取り入れるより、映画の完成形を明確にイメージして作業を進めたようだ。

「脚本についても、コンテもセリフもこれまでなかったくらい、かなり具体的に書いている。ここしばらくの僕のやり方からすれば、ここまでセリフがきっちり決まっていることは、逆に現場で驚かれたくらい」

いわゆる台本があって、状況設定があり、そこで役者が演じる。言ってみれば、ごくスタンダードな制作方法だ。だが、そのスタンダードに縛られないことをルールとした映画作りが続いていたのだから、この変化には何らかの意味を読み取りたくなる。“用意された演技”以外のものを大胆に取り込むことで、ある種の現実感を生み出したのが『ディスタンス』などでの試みだったように思える。だとすれば今回は逆に、作り込んだストーリーと映像によって、この世界の表層からは見えてこない可能性を指し示したのかもしれない。テレビのドキュメンタリー番組から始まり、劇映画というフィクションの中でもリアリティを探してきた是枝にとって、これは1つの分岐点なのか。

「10年間映画作りをやってきて、方法論的な模索からいったん離れてみようと。もともと、これみよがしの表現というのが好きじゃなかった。映画を作り始めたころは、従来の日本映画への批判的な気持ちもあったと思う。時代とともに映画制作の現場が撮影所から街中へと移っていく過程で、演技やメイクは撮影所時代のまま、というのは変でしょう? そういうところから、今までは試行錯誤を続けてきた。ただ、そういう面に関しては今回でやりきった感じもあるし、達成感もある。だから分岐点かと言われればそうだろうし、新しい出発点でもあると思う」


15年後の風景

ところで、なぜ最初の脚本から15年経ってようやく映画化に辿り着いたのか、という疑問がひとつある。

「モチーフについては、あるとき自分の中で引っかかって、時間が経っても消えていかないものがある。それが1週間ですぐに制作開始、となることもあり得るだろうし、今回はたまたま15年後だったということ。これはタイミングとかお金のこととか、本当に色々な要素があるから自分ではどうしようもないところがある。ただ、結果的に今の時期に作れたことについては良かったと思っている。もし5年前の自分がこれを作っていたら、手持ちカメラで子供たちの日常をゴチャゴチャと撮っていたかもしれない」

1991年、最初期に撮ったドキュメンタリー作品『もう一つの教育 〜伊那小学校春組の記録〜』で、是枝はやはり子供たちにカメラを向けている。

「長野の小学生たちを3年間自分で撮ったもので、その時はただ彼らが可愛くて、その姿をひたすら追っていた。でも1本作ってみると当然、“撮ること”って何なのか? 事実とは何だろう? と考え始める。それで、以降はどの作品の中でもいろいろ試行錯誤をやり始めた。それは劇映画に移ってからも同じ。例えばクローズアップは使わない、音楽も使わない、脚本も書かないなど、自分の中でルールを作って。そういう試行錯誤を踏まえたうえで、制限やルールをすべて外してみたのが、今回の『誰も知らない』だと言える」

置き去り事件とそれが起こり得た状況についても、彼の捉え方は年月を経て変わってきた。

「当時は東京ならではの事件だと思っていたけれど、今ではこうしたことが東京でなくても多くの都市で起こり得る。溢れるほど人がいる世界だからこそ、あの事件は起きたと思う。隣にどんな人が住んでいるかなんて知らないことが多いし、多くの親は自分の子供にしか興味を持たない。でも、僕らはこうした暮らしを自分たちで選んできたとも言える。だから、今になって昔のような地域社会復興というのは無理な話で、新しい人と人とのつながりかたというのを考えていく必要があるのだろう、とは感じている」


そして本当に『誰も知らない』?

『誰も知らない』というタイトルには、“何を”知らないのかは示されていない。もちろん1つには、子供たちだけの生活、あるいは子供たち自身を指しているとも言える。また、こうした事件が起きてしまう原因も“誰も知らない”。そして、子供たちだけが体験した暮らしと、そこにあったはずの苦痛や喜び、怒りや悲しみといった感情。それは本人たちしか知らないものだ。だが、わからないものはすべて知ろうとしない、考えもしないという想像力の貧困さが、こうした事件の背景に見え隠れするのも事実だ。

「このタイトルは自分でも気に入っている。15年前の脚本のタイトルは『素晴らしい日曜日』。7年前には『大人になったら、僕は』に変更した。それが今回『誰も知らない』になったのは、まず少年の主観的なモノローグの目線から1つ視点を浮かせたというのがある。僕自身が、事件当時の母親の年齢(40歳)を越えたことも、タイトルの視点が変わったことと関係があると思う」

「このタイトルには、本当に『誰も知らない』のか? 知らないフリをしてるだけではないか? という問いかけの意味もある。映画では、子供たちだけの部屋を偶然見てしまった大家の女性が、ふっと目を逸らす。長男が買い物に通っていた近所のコンビニの店長も、まったく彼のことを知ろうとしない。逆に映画後半に登場する少女は、少年を知ろうと努力している。誰かに知ってもらうこと、少しずつでも知ろうとしてあげること、その関係性は大事なことだと思う」

映画の中で、一度も泣かない長男が唯一泣いているように見える時がある。その時、隣で彼の手を握るその少女は、この映画における是枝の分身なのだろう。

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