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森山大道インタビュー|Dazed Japan 📄

CULT VIP:森山大道

取材・文:内田伸一
『Dazed & Confused Japan』(18)掲載 (2003/09)




1938年、大阪府生まれ。写真家。岩宮武二、細江英公の助手を経て64年に独立。生々しいコントラストや、独特のフォーカシングによる緊張感あふれる写真群で知られ、雑誌、写真集、展覧会を通して作品を発表し続けている。日本写真批評家協会新人賞(67年)、日本写真協会年度賞(83年)、第44回毎日芸術賞(2003年)、ドイツ写真家協会賞(2004年)など受賞歴も多数。『犬の記憶』など、エッセイによる著書もよく知られる。
http://www.moriyamadaido.com/


かつてカメラのことなどろくに知らないまま、有名写真家への弟子入りを強行した男。彼は次々と写真の概念を打ち破り、遂に『写真よさようなら』と宣言した(?)。そして、今日も猥雑な都市を徘徊し、街の断片を捕獲するその男=森山大道。その姿が人々の目に触れた瞬間、彼はすでにそこを離れ、別の場所へと向かっている。

森山大道という写真家、そして彼の撮る写真。そのどちらにも、触れる者に強烈な印象を与える一方、知れば知るほど正体がわからなくなるような雰囲気がある。いわゆる写真家の“王道”とは異なる道を進んできた森山には、常にどこかラディカルなイメージが付きまとってきた。その意味では、周囲が森山写真の代名詞のように用いてきた「荒々しいハイ・コントラスト」的な面が彼自身にもあると言えるかもしれない。しかし同時に、特に70年代に彼の写真を評して多用された言葉「アレ」「ブレ」「ボケ」のように、はっきりと像を結ばない、捕らえ所のない空気も彼の周りには漂う。

インタビューに応じてくれた森山自身は、決してトリックスター的な人物ではなかった。1つ1つの質問に極めてシンプルで明快な答えを用意し、「でも」と続けて別の視点の存在も付け加える。とても流暢な、そして常に自分のバランス感覚に気を配っているような話し方が印象的だ。それでも、この原稿を書いている今なお、森山に対する「つかみ所がない」「底知れない」印象はぬぐい去れない。

彼が見せる様々な顔も、その集合としての人物像全体も、後になってふと「一体あれは何だったのだろう」と思ってしまうような感じがある。彼とその写真について、数多くの評論家や写真家によるテキストが幾度となく書かれてきたのも、このことと無関係ではないはずだ。だからここでは、インタビューにおける彼の言葉を断章的に紹介することで、いくらかでも今現在の森山大道の断片を捉えられたらと思う。そう、今も彼が撮り続けている、路上でのスナップショットのように。

1938年、大阪府生まれの森山大道が、かつて船乗りを夢見たり(実際に商船学校を受験するが失敗)、油絵に熱中した時期もあることはよく知られている。あるインタビューでこれについて触れた森山は、そこで意外とも思える言葉をポツリともらしていた。「……だけど、一番なりたかったのはコメディアンだね」。彼が舞台で観客を笑わせている光景を想像するのは奇妙な気分だが、まずそのことについて聞いてみた。

「18、19歳くらいの頃に、大阪のストリップ劇場によく遊びに行っていてね。そこではいつも、ショーの幕間に芸人さんが出てくる時間があった。ストリップ自体は何度か見ればもう飽きてしまうのだけど、この芸人たちの時間がとても好きでね。僕はどちらかというと外向的ではないし、もともと人前で話すのも好きなほうではない。でも芸人さんだってそういう人も多いでしょう。まあ、ある種の憧れみたいなもので、それだけの話だけど……。今でもその憧れはありますよ」

父親の死をきっかけに、フリーランスの商業デザイナーとして活動するようになったのが22歳のとき。その後、1つの失恋を機に突如として写真の世界に飛び込み、当時関西で最も高名な写真家であった岩宮武二のもとに入門する。その後に上京し、写真集『薔薇刑』などで知られる細江英公のアシスタントとなるが(『薔薇刑』の制作にも携わった模様)、この時期、自分ではほとんど写真を撮ることがなかったらしい。それが変わったのは、25歳でフリーランスになってからだった。

「それまで、自分が写真を撮るということに対してリアリティが希薄だった。そんな感じだからフリーになっても当然仕事なんかない。しょうがないから、自分なりに撮り始めた。ぼちぼちとね。そのあたりから僕の街歩きが、つまり路上で写真を撮ることの気持ち良さというか、そういうものを徐々に覚えていった」

その後、森山は様々な作品を通して、「写真とは何か」を問い続ける。旅一座の芸人たちという濃厚な素材を扱いつつ、被写体から独立した写真のありようを示した『にっぽん劇場写真帖』。盟友ともいえる中平卓馬らと、タイトル通り“挑発”し、せめぎ合うように作品を発表した写真同人誌『プロヴォーク』。既存の事故写真やスキャンダル写真をカメラで複写するという行為で、写真の無名性を告発した『アクシデント』シリーズ。1972年の衝撃作『写真よさようなら』では、そこに何かが写っているのかどうか、それすら判断できないフィルムまでもが荒々しくさらけ出された。写真否定、反写真という極北の地に立ったこの写真集は、その後の森山自身をも悩ませた問題作だった。

にっぽん劇場写真帖 (フォト・ミュゼ)にっぽん劇場写真帖 (フォト・ミュゼ)
(1995/12)
寺山 修司/森山 大道
写真よさようなら写真よさようなら
(2006/03)
森山 大道
※上記2点とも復刻版であり、初版本とは体裁や掲載内容が異なる。

「言葉にするとどうしても、さも紆余曲折があったように見えるんだけどね(笑)。ただ、撮ることで見えてくるもの、わかることがある一方で、その逆もあって。撮ることでわからなくなることも、常に循環的にやってくる。自分でしていることが自分自身にピンとこなくなるような。だから、そうならないように常に自分のなかで仮説を立てて写真を撮ってきた。でも不思議と、なる時にはそうなってしまうね……」

彼はよく「写真との肉離れ」という言葉で、自分と自分の写真との間に生じる隔絶感を表現してきた。そしてそれは70年代後半、展覧会やワークショップなどを含めた一見旺盛な活動のなかで、深刻な時期を迎える。さらにこの時期、親友でありライバルでもある中平卓馬の突然の昏睡と記憶喪失、そして独立直後から森山を評価し、発表の場を与えてきた『カメラ毎日』元編集長の山岸章二の自殺も、森山の精神を激しく衰弱させたようだ。一時期は、カメラを手にすることもなく、精神安定剤を常用するような日々が続いたという。

そこから写真誌『青年時代』に連載された『光と影』(1981年)で“森山大道、帰還する”と評された復活までの経緯については、今回改めて詳しく聞くことはしなかった。その代わり、あくまで今の森山に対して「肉離れ」との向かい方について聞いてみる。

「これまでの経験について、どれかが欠けたら今の僕と違っていたか、それは自分自身ではわからない。ただ、自分と写真との間に肉離れを感じてしまう時があるからといって、写真を辞めることにはまったくならないと思う。そういう時はシルクスクリーンをやってみたり、それか何もせずボーッとしていたり。するとそのうちまた自然に、撮ろうという気持ちになる。ストンと抜けて何かが見えてくる……。まあ、他におもしろいことなんてないしね。身体に写真が染み付いてしまっているから、そうれはもう“辞める/辞めない”という話でもなくて。そういう意味では写真が自分に合っているんだろうね」

「千利休が茶道について、お茶とは湯を沸かしお茶を入れて飲む、ただそれだけだって言うのとどこか一緒で、やっぱり僕にもカメラにフィルムを入れて撮るだけっていう感じがある。もちろん、写真とは何かをいろいろ考えてきて、その都度それなりに自分の思いというのがあるけれど。でも、それは街へ出て撮るに従って、きっとすぐ変わっていく。街に出ると、どんどん拡散していくから」

『光と影』の後も、森山は現在にいたるまでシャッターを押し続けている。1982年には過去に自分が生きた場所を再訪し、写真とエッセイで綴った『犬の記憶』を雑誌で連載。またヒステリック・グラマーが発行する写真集として、都市の断片を350点以上も詰め込んだ『Daido Hysteric no.4』(1993年)からの一連の作品集など、彼はただひたすら撮り続け、歩き続けてきた。2002年には新宿を舞台に、600ページに及ぶスナップショットをまとめた『新宿』を発表している。カメラを手に街を彷徨し、その断片を膨大な量のフィルムへと焼き付けていく。“写真はコピーだ”と言いつつ、ファインダーを通してそれらを切り取るとき、彼の目には何が見えているのだろう。

犬の記憶 (河出文庫)犬の記憶 (河出文庫)
(2001/05)
森山 大道

新宿新宿
(2002/07)
森山 大道

「写真というのは本来、時間を止めてしまうもの。まったく架空なわけで、もう1つの時間、空間、光……そういう構造があるわけです。だからいろんな現実がカメラマンによっても出来てくる。僕には僕の、例えば荒木(経惟)さんには荒木さんのね。ただ、いくら1人のカメラマンが撮ったといっても、写真は撮影した本人だけの現実というわけでもない。もっと社会的なものというか……。そこが芸術と写真がまた違う所だね。それは何となく自分の中で感じている」

「“写真はコピーだ”などと、言うまでもないことを僕がわざわざ言ってきたのは、そうすることで自分がそれを確認していたというのもあると思う。それを自分ではっきりさせることで、何か見えてくるものも違うんじゃないか、というね」

「撮り続けていると当然、どこかキリがない感じもある。そこからくる焦燥感とかもね。いくら撮っても撮っても、何か漏れこぼれているんじゃないかという。でも、それを言うこと自体キリがないことだから、自分なりに思った範囲でやるしかない。ただ、夜中に“こんなところで寝ている場合じゃない”と思うような気持ちは常にある」

写真集『新宿』に詰め込まれた膨大な量の街の断片を見ていると、果たして森山大道は1枚の写真について「いい写真、撮れたな」などと素朴に思うことはあるのだろうか?とふと考えてしまう。

「それはありますよ。みんないい写真(笑)。まぁそれは半分冗談だけど、どんな作家でもあることじゃないかな。さっきも言ったように実際はコピーの作業をしているわけだけど、何が写っているかわからないという偶然に賭ける部分もある。もちろん自分であらかじめ持っているイメージはあるけれど、特に街で撮る写真なんかは、その通りにはいかないからね」

黙々と孤独な作業を続けているようにも見えるが、彼も他人の表現に影響されることはあるのだろうか。かつてはジャック・ケルアックの『路上』を読んで、国道を疾走する車窓からシャッターを切り続けたこともあったと聞く。また、自分が撮る最後の1枚がどんなものになるかは考えたこともないというが、彼が自身の写真に危機感を感じる日が来るとしたら、それはどんな時なのだろうか。

「活字は好きだから結構読むけれど、それが自分の写真とクロスしていくかというと、とても少ないよね。確かにケルアックなどはそうだったけれど。まぁ大体、他人のしてることは見ない。もし見て自分が感動したら、アタマにくるじゃない(笑)。ものを作る人間が人のことを見て感動したらおしまいだよ。それに、街で受ける影響の方がおもしろいからさ。何かに影響を受けたとして、それを抱えたまま街へ出て、また自分をスライスしていく。そうするとまた変形するよね。まったく元のままっていうわけにはいかないから」

「花を撮ったり、仏像を撮ったりし始めたらおしまいかな。それはやっぱり、もう現実と対応できていないじゃない。僕は自分でも非常にロマンティシズムやセンチメンタルっていう部分があるから、そういう心情になるべく流されまいといつも考えている。リリカルというかさ、実はそういう写真撮らせると上手いんだけどね(笑)。でも、心情に流されて、その心情が濃厚に写るような写真になったら……。それはきっと衰弱だから。それをやるくらいだったら、同じ庭の花でもすごくイヤらしく撮りたいよ」

『光の狩人』。これは、現在巡回している森山の大個展のタイトルだ。約40年にわたる活動の軌跡を、240点もの作品で巡る大規模な個展となった。現在、島根県立美術館、北海道立釧路芸術館と巡回し、9月からは最終地の川崎市民ミュージアムで展示される。これらの展覧会については、どう捉えているのだろう。

「今回あれを見てね、2つの思いがある。“こんなにたくさん撮ってきたんだ”というのと、逆に“これだけしか撮ってないんだ”というのと。ほんとに両方ある」

「展覧会と写真集、両者はまったく違う。僕自身のルーティンワークとして考えた時に、圧倒的に好きなのは本を作るほう。自分のナマのプリントを並べるというのは本当はあまり好きじゃない。やはり印刷されることで初めて、自分が撮ったものが息を吹き返すような感覚があるからね。プリントをまったく否定はしないけども、僕の感覚では、写真はやはり本1冊作って初めて……という感じがする。それで満足感や達成感を得る、というのもまた違うけれど。今年の12月には全集が出されるけど、これには自分でもなかば忘れているような写真まで収録される。そういう意味では、この全集は感慨深いかもしれない」

周囲からビンテージ・プリントとして大事に扱われる自分の写真1枚と、やはり自分の写真集1冊ということで言えば、残したいのはどちらかと聞いてみた。

「それは本だよ。その質問の意味で言えばね。写真は基本的にプリンテッド・メディアで、1枚の写真も印刷のトーンや方法、紙の使い方によって活かされ方が違う。さらに雑誌で言えば、掲載されるメディアによっても違ってくる。この雑誌のほうがあちらより明らかに活きる、というのはあるから。言うまでもなくコピーから始まっている世界だし、だから1枚の印画紙がすでにプリンテッドではあるけれど、それがさらに印刷というコピーを重ねていくわけで。それによって同じ写真がどんどん違う顔を持っていく。そういう感じが自分としてはいつもある」

来年の春には、意外にもハワイの撮影を計画しているという。「みんなに笑われてるけれど、やりますよ」と言う森山は、今後の予定について語るときも変わらず淡々としていた。しかし、クールという言葉にはけっこう抵抗があるようで、「端から見るとそうとられることも多いようだけれど、僕はクールでも、またホットでもない」そうだ。それは何か達観しているような感じかと聞いてみると「達観なんかしてたら“写真は芸術だ”なんて言って、そういう写真を撮り始めるよ」と珍しく顔を崩して笑っていた。

結局、“森山大道”とは誰なのか、それは彼自身にもわからない謎なのだろう。逆に「自分のことはよくわかっている」と口に出したその瞬間、人はその場所に縛り付けられ、緩慢な死への秒読みを初めてしまうのかもしれない。今日も街の一角でシャッターを押し続ける森山には、恐らくそんな日は決してやってこないのだろう。


Wondering Camera in the Street 森山大道とスナップショット
カメラを片手に都市の路上を歩き回り、その断片を切り取るように撮影していく“スナップショット・スタイル”。そもそも、森山がフリーランスとして独立後に自分の写真を撮り始めたころの作品群『ヨコスカ』がすでにそうだった。基地の街でもあった横須賀をうろつき回り、気の荒い連中に蹴飛ばされたりしながらシャッターを押していたらしい。

「あの頃の横須賀はスリリングでおもしろかった。ペンキの書き割りみたいな街でもあったね……。ああいう猥雑な場所が好きなんだよ。今はもうずいぶん変わってしまっただろうけど、僕はそういう中でスナップを覚えていった」

その頃の様子は想像するしかないが、今でも森山は同じように街へ出て写真を撮り続けている。新宿の路上で撮影する森山の映像を見たことがあるが、片手に握った小さなコンパクトカメラの他に何も持たず、通りから通りへ野生動物のように飛び移っていく姿が印象的だった。人物を被写体にする時など、ファインダーを覗かず、盗撮のように腰のあたりでシャッターを押していることもあった。

「きちんとファインダーを覗いて撮るものもあるけれど、街で直感的に体感したモノをとっさに反応して撮るには、いちいちそうしないこともある。何が写っているか大体の見当では撮るけど、それが外れるときもあるし、逆にそのせいでおもしろい場合もあるわけでね」

「写真を撮るときは、たいてい1人で行く。何か写真学校の生徒が気付いて話しかけてきて、迷惑だったりすることはあるけれど(笑)。ただ本当にたまに、知り合いの女の子に頼んで撮影のあいだ一緒に歩いてもらうことがある。写真をやっている人とかでは全然なくて、女ならいいわけだから。やっぱり1人でカメラ持って街をウロウロしていると怪しいから、当然敏感になる人もいるわけで。夜の歌舞伎町とかは特にね」

2002年に発表した写真集『新宿』には、そうやって撮り続けた写真が溢れんばかりに詰め込まれている。新宿は、彼にとっていろいろ感じるところの多い街らしい。

「やっぱり新宿はおもしろい。人もモノも街も、いろいろと。お酒飲んでジッとしてたりすると、イライラしてくるくらいでね。酒飲んでる場合じゃないぞって(笑)。もちろん新宿だけがおもしろいわけではないはずだけど、渋谷とかはさ、ちょっと外れの方に出るとすぐ普通になってしまう。その点、新宿は何か得体の知れない所があって……。アメーバーみたいに、わけのわからない広がりを作っている。すごく象徴的な街じゃないかな」

「ただ、楽しいっていうのはあまりない。ある種の快感はあるけどそんなに楽しくはないよ。楽しがって写真を撮る人って、あんまり好きじゃない。やっぱり何かのインパクトがあるから街に出る。そのインパクトをキャッチして、もう1つの現実みたいなものを作りたいと思うから。撮ること以外におもしろいことがないんだ。そう言うとまた、カメラマン魂みたいに受け取られるかもしれないけど。そんなんじゃなくて、ただもう撮っている」

それでも、やはり新宿という街には、森山でもどこかひるんでしまう瞬間があるという。そんな自分自身がその日のわだかまりになって、仕方なくまた出直すこともある。そういう時は、家に帰ってシャワーを浴び、気持ちを入れ直して(ときにはちょっと酒を飲み)、また出かけていくという。

「そういう意味で新宿という街は、僕にとってのリトマス試験紙みたいなところがあるかもしれない。あの街に興味が持てなくなって、どこかの下町のほうへ行っちゃうようになったら……。下町は下町で撮っていておもしろいけれど、新宿という生々しい街があるのに、そこから目を背けるようになったら僕はきっとおしまいだなと思う。そういう対象だね、新宿は」

そんなふうに新宿の街を漂う森山の姿は、映画『≒(ニアイコール)森山大道』の中で見ることができる。藤井謙二郎監督によって企画から撮影、編集までが行われたこの映画は、ドキュメンタリーとして森山大道の人物像に迫ったものだ。ちなみに森山は、この映画への出演依頼を最初は断り続けていたらしい。

「もう3回くらい断って、最終的にはお酒飲んでやられちゃったんだよね。最初はまったくそういう気がなくてさ、電話ですぐに断って……。だけど、藤井さんもあんまりしつこいしね。それで、あんまりしつこいっていうのは僕はどこか認めるところがあるから。藤井さんと話して、たとえ途中でも、もしお互いどちらかが嫌になったら、率直にそれを言って止めよう、という合意のうえで撮影を始めた。実際にやってみたら、彼もなかなかおもしろい人で。やっぱりこう、結局人間だね。その人間に興味が持てればさ、映画監督であろうと何であろうと、一緒にできる」

街からインパクトを受ける、そのために森山は街へ出るような面もあるのだろうが、『≒森山大道』も、これまでとはまた別のインパクトを彼に運んできたことになる。この映画で、森山は藤井監督に手渡されたデジタルカメラでの撮影も初めて試みている。そして、それを使って撮ったのは、やはり街の断片だった。

いつか自分の足腰が弱って街を歩けなくなったら? という質問には、「スタジオで大きなカメラを使って、ヌードを撮るかもね」との答えが帰ってきた。「老人ならではのいやらしい写真をね(笑)」。それは冗談かもしれないが、歩けるうちはともかく街へ、というのは正直な気持ちなのだろう。彼にとって街を徘徊することはきっと、もはや好き嫌いの次元を越えた行為なのだ。

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