鬼海弘雄インタビュー|Dazed Japan 📄

CULT VIP:鬼海弘雄 — PHILOSOPHY OF SHADOW

取材・文:内田伸一
『Dazed & Confused Japan』026掲載 (2004/05/01)




Hiroh Kikai
写真家。1945年、山形県生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。山形県職員を辞して、トラック運転手、造船所工員、遠洋マグロ漁船乗組員など様々な職業を経て写真家に。1973年より浅草寺で人物写真を撮りはじめる。APA賞特選、日本写真協会新人賞、伊奈信男賞、「写真の会」賞を受賞。2004年には写真集「PERSONA」で第23回土門拳賞を受賞した。


ある者は笑顔で、ある者は睨みつけるような目つきで、こちらを見つめ返してくる。何か物言いたげな表情の人物もいる。それらの写真を前にすると、果たしてどこに行ったら、こんな奇妙な人々に次々と出会えるのか? と不思議に思うだろう。さらに奇妙なことに、いずれの顔もどこかで会ったような気がしてならないのだ。

鬼海弘雄は、30年近く前に手に入れたハッセルブラッド製のカメラを今も使い続けている。そして、同じくらいの年月を浅草寺近辺での撮影に費やしてきた。被写体は、名も知らないまま出会った人々ばかりだ。作品集『PERSONA』(草思社)には、そうして撮りためた180枚のモノクロ・ポートレートが並ぶ。

PERSONA
『PERSONA』(2003年)

鬼海が写真家となるまでにたどった道筋は、決して一直線ではない。1945年、山形県の農村で生まれた彼は、地元の高校を卒業した後に県職員として働き始めた。だが、これは長続きしなかったらしい。

「そこで自分がこの先どんな生き方をおくるかが、もう丸見えのような気がした。それで、今までやってきた“実務”から一番遠いものは何だろうと考えていたら、哲学っていうのがあるらしいぞ、となったわけです」

退職した鬼海は、上京して法政大学文学部の哲学科に進む。師事した哲学者、福田定良の存在は、彼にとって刺激的だったようだ。

「いわゆる哲学研究者と違って、自分のことを自分で考えるおもしろさ、その本質を教えてくれた。学校の先生としてはすごくラディカルだったのだろうけど、その人につかまった感じです。私みたいなのは、格好の実験材料だと思ったのか……?」

鬼海は彼との対話のなかで「考えることがいかにおもしろいか」に気付かされたという。一方で「もしあの先生に出会わなかったら、グレずに真っ当な会社員になっていたとも思う」との言葉通り、鬼海は大学卒業後も就職せず、自分に合った表現方法が何かないかと思いを巡らせていた。それでも、考えているだけでは食べていけない。トラック運転手、職工、マグロ漁船の乗組員など、さまざまな仕事で生活資金を稼ぎ、食いつないでいた。そんな迷いの中にいるとき、ダイアン・アーバスの写真集に出会ったという。

「何度見ても見飽きない写真、というのを初めて知った。自分の内面を掘り起こさせ、会話へと引き込む写真だった」。写真なら1人でも撮れるし、自分でも、押せば何か写るかもしれない。彼はモノクロのプリント技術を学びつつ金も稼げる現像所で働き始める。そのころ、今も使い続けているハッセルブラッドを手に入れた。「当時も毎週会っていた福田先生にその話をすると、ポンと代金を渡してくれた」そうだ。そのカメラを持って浅草寺をぶらつき、気になる人物の撮影を始めたのが1973年。20代も終盤のころだった。

「人混みの中でも、群れずに屹立している人がいる。どの写真も、この人を舞台に上げたら戯曲が一本すぐできる、そんな人を選んでいるつもり」

被写体をつかまえたら、彼らが最も自信を持っているであろうイメージやパターンを、あえて崩すことを試みるという。「そもそも自己表現に長けた人たちを選んでいるようなものだから。それをズラしてみるんです。といっても茶化したりする気持ちはまったくない。一番その人物らしい形を探るために、そうしている」。

写真に添えるキャプションも、そんな思いの現れだろうか。“遠くから歩いて来たという青年”、“二十八年間、人形を育てているというひと”、“青森刑務所での服役中、短歌を詠むことを覚えたという男”。いずれもその背後に物語を感じさせる。“気短なひと”などは現場で起きたことをただ書き付けただけとも言えそうだが、それがこの人物の本質を突いていたのだろう。

「まあ総合格闘技みたいなもので、表現のためにはあらゆる技を使うということです。ちなみに“気短なひと”は、3枚くらいしか撮らせてくれなかった(笑)」

すべての写真の背景は、のっぺりした寺社の外壁。余計な情報はないほうが人物そのものを捉えられるし、大げさな機材で相手を構えさせたくないからだ。こうした撮影方法にこだわる理由の1つは「時間を撮るため」だとも言う。なかには、長い時を経て再び彼の前に現れた者もいる。首からカメラをかけた青年の1枚と、15年後にやはりカメラを首にかけ、こちらを見つめる同一人物の写真。顔立ちや顎の傷からは、確かにこの2枚が同じ人物であることがわかる。しかし、カメラは15年という時間を容赦なく写し取っている。「 何十年やっても、他人をレンズの前に立たせる緊張感は薄れることがない。同じことを続けてきて退屈になるなら、その方法論が間違っているということだと思う」。

鬼海の写真は人間の記録であると同時に、この“哲学する写真家”の表現でもあるはずだ。彼は被写体のポーズなどにそれほど細かく注文はつけないと言うが、写真のフィクション性という側面については、それを否定しない。

「“真実を写す”ってありのままを撮っても、それは浅くってしょうがないでしょう。その先を撮りたいと思えば、フィクション性を持ち込むことになる」。しかも彼は、そのフィクション性を逆手に取って、実は普遍的なものを探っているようにも思える。全くの異世界と、懐かしさが共存する不思議な感覚。

「それは、写真の中にあなた自身を見るからでしょう。私はいつも、個人とは、人間とは何かということでやってきた。もちろん答えはないのだけど、その中でリアリティを問い続ける行為です」。かつてポーランドの展示で鬼海とその作品に触れた、映画監督のアンジェイ・ワイダは「ポーランド人と日本人がとても似ているのがわかった」と語ったそうだ。“似ている”という言葉がそこで指しているのは、文化的特徴というよりも普遍性だったのだろう。

鬼海の写真には、人の写っていないシリーズもある。写真集『東京迷路』(小学館)には、誰もいない静かな街の姿がある。「街を撮っても、実は人を撮っている。人を撮るために、人を避けてみた」というのが彼の言い分だ。その場所の匂いを捉えた「場所のポートレート」が成り立たないかという考えがきっかけだった。

東京迷路―鬼海弘雄写真集
東京迷路―鬼海弘雄写真集(1999年)

また「1年に一度は何とかして行きたくなる」というインドには、通い始めて25年になる。トルコも何度も訪れている国で、こちらは10年通っているという。カメラを手にこうした放浪を繰り返すのも、異国情緒に憧れてではなく、日本ではもう見つけ難いような何かに出会えるからだと言う。トルコについては、あと数回通った頃に新しい写真集が出せるだけのボリュームになりそうだ、とのことだった。

「自分にとっては、写真を撮ること=考えること。私は、人がよく“画家です”、“作曲家です”という時のような、いわゆる“写真家”ではない。堅い岩石を砕く削岩機として、あるいは世界の覗き穴として、写真を使っている。200年とか300 年後というスパンで捉えないと、自分でやっていることは見えてこないと思う。もちろん200年後には私はいない。しかし、そういう捉え方をしないと自分をフィクション化できない、つまり客観化して見つめられないのでは、とも思っている」
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