中沢啓治(漫画『はだしのゲン』作者)インタビュー|Dazed Japan 📄

CULT VIP:中沢啓治——伝道師の復活

取材・文:内田伸一
掲載資料協力:1995 Gen Production(ファンサイト)
Dazed & confused Japan (11) (2003/02)




Nakazawa Keiji
1939年、広島市生まれ。漫画家。代表作に、自身の被爆体験をもとにした『はだしのゲン』がある。同書は日本のみならず各国で翻訳版が発行されている。2002年、平和運動や被爆者援護などに尽くした個人・団体に贈られる谷本清平和賞の第14回受賞者となる。2009年に、白内障の悪化などで従来のように描画ができなくなったことから漫画家としては引退。今後は油彩画などで表現を続けていくと表明した。
※ 2012年12月19日、中沢氏は永眠。ご冥福をお祈りします。


時が止まった広島の原爆投下。中沢啓治の分身、ゲンはその中を失踪する。惨劇と冒険、悲劇とユーモアの混在する異色漫画は誕生30年後の今も、叫び、裸足で走り続けている。

今、これを読み始めた読者は軽い戸惑いの表情を浮かべているかもしれない。DAZEDで『はだしのゲン』……? しかし、一度でも『ゲン』を読んだことがあれば、これが強烈な個性を放つ漫画であったことに異存はないだろう。凄惨な原爆投下場面、悲劇とユーモアが交錯するサバイバルライフ、ケンカ相手の指を食いちぎる少年ゲンの激情……。学校図書館にある唯一のマンガ本として『ゲン』を手に取り、ゲンの無茶な活躍ぶりに夢中になった人も、逆に背筋の凍る思いをした人もいると思う。

ところで、この異色の漫画が誕生してから今年で満30年になることを知っているだろうか。また、その間にゲンがマルチリンガルの国際派少年になり、ミュージカルやオペラにさえ出演していることを。

『はだしのゲン』は、作者である中沢啓治の実体験を描いた物語だ。太平洋戦争末期の広島市に暮らす小学生・中岡ゲン。家族は両親と兄弟5人で、貧しいながらも元気に暮らしていた。しかし戦争に批判的な父親の言動がもとで、一家は非国民扱いされ苦しむ。さらに1945年8月6日、広島の原爆が投下され、ゲンは父、姉、弟を目の前で失う。母と共に生き延びたゲンは、戦後の広島で様々な体験を通し成長していく……。物語のほとんどが中沢の経験をもとに描かれた、いわば私小説のようなものだ。しかし、東京で漫画家としてスタートを切ったころの彼は“原爆”という言葉を思い出すことさえ避けていた。

「その言葉だけであの惨状と、人が焼けた匂いや、死体の腐臭が蘇る。それに当時は被爆者に対して一種の偏見もあった。上京してできた新しい友人たちに自分が被爆者だと打ち明けたとき、彼らの顔が変わったのは忘れられない。そんなこともあって、戦争の記憶から逃げていたのだと思う」

1966年、長期入院していた母の死がその気持ちを変化させる。原爆症と長い入院生活のせいか、火葬後の母は骨も残らず白い灰だけになった。「原爆は母の骨までも奪っていくのか」という怒り。戦争も原爆も、いまだに日本人の手では何も解決されていないことを痛感した。

その後、中沢は1週間で『黒い雨にうたれて』を描き上げる。広島で被爆し、外国人の暗殺のみを請け負う殺し屋の物語。全編に異様な雰囲気が漂うこの劇画には、その後『ゲン』で描かれるテーマの原型が見られる。原爆とアメリカ、そして戦局をそこまで追い込み、戦後も被爆者たちに惨めな思いをさせた日本国家や社会への怒り。あの日に広島にいたというだけで人生を狂わされた人々の、やり場のない気持ち。しかし、作品が背負っている政治的・思想的側面(中沢の真意はもっと普遍的なものだったにしても)から、大手の出版社はどこも掲載に慎重になった。唯一、青年誌『漫画パンチ』がこの作品を受け入れる。

「ただし」、と当時の編集長は中沢に告げた。「俺も君もCIAに捕まる覚悟でないといけない」。中沢は了承したが、幸いそういう事態にはならなかった。1968年、中沢がこの作品を描き上げてから2年越しの掲載実現。ちなみにこの年は、東大紛争や五月革命、キング牧師やR・ケネディ上院議員の狙撃事件などが世間を騒がせていたころだ。

さらに1972年、中沢は『月刊少年ジャンプ』の漫画家自叙伝シリーズに自らの戦争体験を描いた『おれは見た』を執筆。これを読んだ『週刊少年ジャンプ』初代編集長・長野規は、中沢にこの漫画をもとにした連載を依頼する。翌1973年、『はだしのゲン』が誕生した。

「『マジンガーZ』や『ど根性ガエル』と一緒にゲンが掲載されたことで、“出版界七不思議の一つ”だと言われた。連載を決めたとき女房に、これから玄関を開けるときには気をつけろと伝えたのを憶えている。ゲンの内容に反発して、必ず嫌がらせが出てくると思ったから」

『ゲン』は核攻撃を実施したアメリカへの批判と同様、日本の軍国主義や差別問題をも告発している。かつて戦争に反対した父親が警察に連行されるのを目の当たりにした中沢は、自分が描いているものを気に入らない人々がいることを十分察していた。それでもスタートを切った『ゲン』は、その後1年半のあいだ連載される。そして、『市民』『文化評論』『教育評論』と掲載誌を変えながら、中沢は1987年までこの物語を描き続ける。

ある日、髪の長いヒッピー風の男が彼の自宅を訪れた。その風貌に少し躊躇した中沢だったが、その申し出は『ゲン』の英語翻訳版を出版したいというものだった。彼らは1976年から“プロジェクト・ゲン”の名で独自に外国語版制作を始める。最終的に全4巻の英語版『BAREFOOT GEN』を自費出版し、後にこれがアメリカ、イギリスの各出版社から発売された(現在は米LAST GASP社が管理)。

彼らはその活動を終えるまでに、英語版のほかフランス語版、イタリア語版など多くの翻訳版を世に送り出した。参加者の多くは日本の大学生のボランティアだったが、アメリカから日本音楽の勉強に来ていたアラン・グリースンもこのプロジェクトに参加した一人だ。

「こういう内容をコミックで実現していることが、とにかく驚きだった。アメリカ人の多くは、やはり原爆に対して複雑な感情がある。“じゃあ、真珠湾はどうなんだ?”という意見があるのも事実。でも『BAREFOOT GEN』を読んだ人は日本で戦争と原爆に苦しんだ人々の現実を、冷静に受け止める機会を得たと思う」

ここで少し触れておきたいのは、『ゲン』の漫画としての“面白さ”だ。平和教育のバイブル的な面が強調されがちだが、ハードな戦争描写に加えて漫画ならではのテンポとユーモア、ストーリーの盛り上げ方など、単純に優れたコミックとしての魅力がゲンには備わっている。ゲン少年は生活費のために明るく物乞いをするし(なぜか浪曲が得意)、居候の自分をいじめる大家は肥溜めトラップで撃沈する。それは読者サービスというより、実際の中沢の人生観を反映したものだ。「生きるか死ぬかの状況でも、人には喜怒哀楽がある。やりきれなさと反比例して出てくるカラ元気もある。特には私はまだ子供だったから、本当に楽しんでいた瞬間もあった」

悲劇とユーモア。多くの優れた物語がそうであるように、『ゲン』の中にはこの相反する要素も共存している。それが『ゲン』にリアリティを与えるし、嫌悪感を呼び起こすほどの恐怖や悲劇の一方で、人々を惹きつけてきたと言える。

1976年、実写版の映画『はだしのゲン』が制作される。この映画は国内公開に続き、チェコのカルロビバリ映画祭に出展された。字幕もなく、その場で通訳が吹き替えながらの上映。しかし最後まで席を立つ者はなく、出席した中沢を泣きながら包容する人もいた。一方で、「自分たちは放射能に免疫があるから核戦争でも生き残る」と信じられないことを話す人もいた。ウランの埋蔵値として有名な土地柄だから、一種の冗談だったのか……(現在では各地のウラン鉱山の地下水汚染が問題になっている)。

こうした海外での経験は、核の現実がいかに理解されていないかを、改めて痛感させるものでもあった。しかし、ゲンのメッセージが海を越えて届いたのは確かだった。『はだしのゲン』はこの映画祭で原作賞/監督賞(山田典吾監督)を受賞する。

'90年代半ば、イギリス人のブライアン・ジョーンズ(同名の亡きロック・スター同様、彼も自分の興味に忠実だった)が来日した。高校生の時に母親からもらった英語版『ゲン』を読んでいたジョーンズは、これをオペラにしたいと考えた。中沢はイギリスでの公演に自分を招待することを条件に、これを了承する。1996年、英国人キャストによるオペラ『BAREFOOT GEN』は、英シェフィールドのクルーシブル・スタジオ・シアターで上映された。3日間行われた公演のフライヤーには、真っ赤な空の下で叫ぶゲンの顔が使われた。

このほか、日本では同年にミュージカル版『はだしのゲン』が上演され、1999年にニューヨークでも上演。またアニメーション版も1983年から2作が日本で制作され、米テキサス州・ダラスの上映では中沢を迎えての質疑応答に長蛇の列ができた。さらに広島でのオペラ公演、講談師による上演、絵本版『ゲン』などなど。様々な展開がゲンを新しい場所へ運んでいった。

21世紀に入ってもゲンの旅は続いている。最初に外国語版を制作したプロジェクト・ゲンは現在その活動を終えているが、新たに発足した『プロジェクト・ゲン ロシア班』が2001年に全10巻のロシア語版制作を完了した。彼らは英語版についても完全版制作を進めている。2002年には、在日朝鮮人2世の金松伊氏により韓国語版の全訳が完成し、ソウルで出版記念の会が行われた。

これにより、核の大きな傷を抱える2つの言語権で新たに『ゲン』が読まれることになる。ロシア語圏では、1986年に旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリが史上最悪の原子力発電事故を経験している。また日本で被爆した在日朝鮮・韓国人は約3万?6万とも言われ、これは日本人以外の民族では最大の被爆者数だ。

もちろん、その一方でロシアとの北方領土問題、朝鮮半島における日本の強制労働、従軍慰安婦問題などが暗い影を落としているのも事実である。しかし、『ゲン』の翻訳者たちは、広島・長崎への一方的な同情を求めているのではない。彼らはただ、戦争と核兵器否定のメッセージを『ゲン』を通して届けたいと願っている。それは中沢自身がゲンに託したのと同じ、極めてシンプルな願いだ。

「平和とか正義という言葉さえ、私には少しうさん臭く聞こえる。あの大戦自体がアジア解放という大義名分のもとに行われた。だから私が望むのは、自由だけ。自由に話し、行動ができる世の中だ。命の危機を感じることなく自由に生きられる世の中だ」

『ゲン』には続編があるという説がある。現在発表されている最終話は、画家を志したゲンが東京行きの汽車に乗り込んだところで終わっている。それに続く『東京編』がいつか描かれるのでは? というのだ。インタビューを行った中沢の書斎で、作業机の上にその『東京編』の1ページ目が下書きのまま残っているのを見つけた。それはかなり前からそこにあるようにも、今さっきまで中沢が描き込んでいたようにも見える。

「そこまで描いて、やはりペンを置くことに決めた。ゲンを通して言いたいことは、もう描き切ったと思ったから。あるいは外伝的な物語を描くことがあるかもしれないが、ゲンはもう1人で歩き出している。ゲンの精神がこれからも広がっていくのをただ願うだけだ」

その下書きは、ゲンの乗った汽車が東京駅に到着するところで終わっている。中沢はきっと、自分の分身でもあるゲンにまだまだ旅を続けてほしいのだ。



※この記事の掲載から数年後の2009年、『はだしのゲン』英語バージョンの完全版が完成したようです。
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